2009年夏のある日、岩佐監督から電話で呼び出された。「プロデューサーをやってもらえないだろうか」。チベットの少年を主人公にした映画だという。沖縄やアイヌを描く映画を作ったり、山形国際ドキュメンタリ−映画祭で「世界先住民映像祭」(1993年)を企画したりしてきたつながりから、チベットにも関心をもつようになっていた。しかし、実際にチベットへ行ったことはなく、チベット人に会ったこともなかった。それでもプロデューサーを引き受けたのは岩佐監督が語る“チベットの悲劇”に衝撃を受けたからだ。話を詳しく聞けば聞くほど「どうしてこんなに悲しいんだろう」と思えてくるのだった。
2011年冬の数週間、第三次ロケに参加した。インド北部の町ダラムサラからネパール・ポカラまでの旅。主人公のオロにはじめて会った(この旅でオロの魅力にじかに触れたことは、編集作業の際の大きな力になった)。大勢のチベットのひとびとに会った。1959年に亡命したダライ・ラマ法王14世の後を追うようにヒマラヤを越え、50年以上異郷で生きてきた難民一世のおじいちゃんおばあちゃん。難民二世のおとうさんおかあさんは懸命に難民三世となる子どもを育てていた。“チベットの悲劇”はいつまでつづくのか。しかし、実際に会ったチベットのひとびとは「どうしてこんなに明るいんだろう」と思うくらい、たくましかった。
2011年3月11日午後2時46分、仕事場でこの映画の編集をしている最中、地震はきた。テレビが東北で大震災が起こり、大津波がきていることを告げている。その後につづく原発事故によって“ニッポンの悲劇”がはじまったと感じた。暗い気持ちの日々がつづく。それでも編集を進めようとしたとき、映像のなかのオロが、チベットのひとびとが、日常は「どうしてこんなに悲しんだろう」と「どうしてこんなに明るいんだろう」の繰り返しだよ、と教えてくれた。悲しみの涙を流して嘆く心を鎮めるしかない、受難のなかに希望を探し出すしかないと思う。
2011年10月のある日、大友良英さん作曲の音楽演奏の録音が無事に終わった。映画の完成は近い。岩佐監督も満足そうだ。岩佐監督とロケ現場をずっと共にした撮影の津村和比古さんの顔もある。絵とアニメを担当してくれた下田昌克さんまで大友さんの演奏を聴きたいと駆けつけた。「プロジェクトFUKUSHIMA!」の活動で奔走する合間に大友さんが作ってくれた音楽は「状況はきびしいけど、ひとりひとりの心はやさしいよ」とチベットの少年を、そして日本の少年を励ましている。そういえば、9月に描き上がった下田さんの手による映画へ挿入する似顔絵からも同じ印象を受けた。
2012年初夏、おそらく6月下旬からこの映画の公開がはじまる。岩佐監督から電話で呼び出されてから約3年、映画『オロ』が世の中に生み落とされる。今回はプロデュースだけでなく編集も担当したせいもあるが、製作過程のなかで「映画づくりとは空気を紡ぐような営み」であることをつくづく味わった。力不足なプロデューサーなので、監督やスタッフ、サポーターがやる気という空気を発して、カンパという応援の空気を集めた。400名を越えるひとのおもいやりの空気によって、この映画は成立している。
編集者としてオロの空気をせっせと紡ごうとしてみても、何もみえてこない時期が長かった。皮肉なことだが、2011年3月11日を境に日本の空気が変わったことによって、チベットのひとびとの「悲しみ」と「明るさ」の空気を自分自身のものに置き換えることができるようになり、ようやく一本の映画として紡ぐことができたような気がする。
映画そのものも映画館という暗闇で観客が共有する空気であると思う。映画『オロ』が放つ空気のなかで、多くのひとびとが気持ちよく深呼吸してくれますように。
代島治彦 Daishima Haruhiko
1958年埼玉県生まれ。早稲田大学政経学部卒。映像作家/プロデューサー。有限会社スコブル工房代表。1994年9月から2003年4月までミニシアター「BOX東中野」を経営。多数の映画・テレビ番組を製作・演出。2007年より映画美学校講師を務める。2010年、映画『まなざしの旅 土本典昭と大津幸四郎』を監督。映像作品に『日本のアウトサイダーアート』(全10巻、紀伊國屋書店)、著書に『ミニシアター巡礼』(大月書店)、共著に『森達也の夜の映画学校』(現代書館)などがある。